11世紀の中ごろ、京都の朝廷から北上奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手)の支配を任せられていた安倍頼良は、次第に勢力を強め、支配圏を拡大、奥六郡の南境に位置する衣川を越え、陸奥国司の支配と抵触するようになり、朝廷と争うこととなりました。
1051年、陸奥国守に任命された源頼義・義家親子は、いく度かの戦いを続け、出羽山北三郡(秋田県地方)の豪族・清原氏と連合軍を組んで、1062年、奥羽の安倍貞任・宗任兄弟を倒し平定しました。これが「前九年の役」です。この時頼義は、最上・東、両街道の要害となっていた四方峠にこもって、安倍一族を迎え撃ちました。この先陣をきって奮戦したのが、鎌倉権五郎景政という武士だったそうです。
景政は、この四方峠の戦いで、不運にも安倍家臣・鳥海称三郎の矢に目を射られ、重傷を負いましたが、郎党に助けられ後方に下がり、川久保川の土手の下で傷を洗い手当をし、再び戦場で奮戦したそうです。このため、このあたりの川に生息する鰍(カジカ)は、片目になってしまったと言われます。
戦いが終わって景政が、当時このあたりで一大集落となっていた平沢で傷の療養をしていると、ある夜、羽山(出羽三山)の女神が夢の中に現れました。
「わたしは、羽山の神の使いであるが、信仰厚いそなたの心をめでて、その傷を治してやりたい、この沢の上流に温湯があるゆえ、心静かに湯治をするがよい」と言って女神は消えました。
景政は、不思議に思いながらも郎党に探させたところ、ぬるい湯がわき出ている沢を発見し、この湯につかると、景政の傷は、たちまち全快したと伝えられています。
以来、この湯の沢を景政の姓をとって「鎌倉沢」と呼ばれ、傷に効く名湯として近郷近在に住む人々の湯治場として現在に至っています。