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  • 時は平安時代。今より約950年前\n奥州(現在の岩手周辺)で勢力を伸ばし、朝廷に反乱する安倍一族を討伐するため、京都より朝廷軍が派遣された。
  • 場所は、蔵王町平沢の四方峠。\nこの時、安倍軍の大将が放った矢が、朝廷軍武将・鎌倉権五郎景政の右目を射った。しかしながら、戦いは朝廷軍の勝利で終わる。
  • 女神からのお告げ\n戦いが終わり、景政は、平沢の集落で傷の療養を続けていると、ある夜、夢の中に女神が現れ、この沢の上流に、傷に良い温泉があると告げられる。
  • 温泉の発見\n景政は、不思議に思いながらも郎党に探させたところ、ぬるい湯が沸き出ている沢を発見。
  • 温温泉での治療\nしばらくの間この地に逗留し、源泉で直接、傷を洗い、治療を続け、沸かして体を温める。
  • 傷の回復と、鎌倉沢\n矢で射抜かれた目は、化膿すること無く、きれいに完治し、凱旋した。\nこの時より、この沢を鎌倉沢と呼ばれる。
  • 時代は、大きく変わり、\n明治元年。今より約150年前\n新政府に不満を持つ武士が決起し、戊辰戦争が始まる。
  • 相馬で戦ったご先祖様\n1868年7月、会津藩の応援部隊として、仙台藩より当家(堀内家)六代目当主・幸平が、相馬の戦いにて、左腕を負傷。政府軍の勝利で戦いは終わる。
  • 温泉の再発見\n戦が終わり、無事に集落に帰還した幸平は、鎌倉沢で漁をしていると、ほのかに湧き出る温泉を発見。その温泉により、左腕の傷が完治した。
  • 鎌倉温泉として創業\nその後、傷に良い温泉として、この地に湯治場を開き、農作業の疲れや、皮膚病の治療として多くの人から利用されている。\n名称も鎌倉沢より湧き出る温泉として「鎌倉温泉」と命名し、現在に至る。

11世紀の中ごろ、京都の朝廷から北上奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手)の支配を任せられていた安倍頼良は、次第に勢力を強め、支配圏を拡大、奥六郡の南境に位置する衣川を越え、陸奥国司の支配と抵触するようになり、朝廷と争うこととなりました。

1051年、陸奥国守に任命された源頼義・義家親子は、いく度かの戦いを続け、出羽山北三郡(秋田県地方)の豪族・清原氏と連合軍を組んで、1062年、奥羽の安倍貞任・宗任兄弟を倒し平定しました。これが「前九年の役」です。この時頼義は、最上・東、両街道の要害となっていた四方峠にこもって、安倍一族を迎え撃ちました。この先陣をきって奮戦したのが、鎌倉権五郎景政という武士だったそうです。

景政は、この四方峠の戦いで、不運にも安倍家臣・鳥海称三郎の矢に目を射られ、重傷を負いましたが、郎党に助けられ後方に下がり、川久保川の土手の下で傷を洗い手当をし、再び戦場で奮戦したそうです。このため、このあたりの川に生息する鰍(カジカ)は、片目になってしまったと言われます。

戦いが終わって景政が、当時このあたりで一大集落となっていた平沢で傷の療養をしていると、ある夜、羽山(出羽三山)の女神が夢の中に現れました。

「わたしは、羽山の神の使いであるが、信仰厚いそなたの心をめでて、その傷を治してやりたい、この沢の上流に温湯があるゆえ、心静かに湯治をするがよい」と言って女神は消えました。

景政は、不思議に思いながらも郎党に探させたところ、ぬるい湯がわき出ている沢を発見し、この湯につかると、景政の傷は、たちまち全快したと伝えられています。

以来、この湯の沢を景政の姓をとって「鎌倉沢」と呼ばれ、傷に効く名湯として近郷近在に住む人々の湯治場として現在に至っています。